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「執着」と向き合う上で大切な、現在と過去の「縁起」について🐴👨🏻‍🦲🪷



 

かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。

「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。

 

「執着」と「縁起」


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過去に引きずられ、思い悩むのは「執着」と仏教では定義づける。


変えようのない、戻ることのできない過去。

だけど、じつは「感情だけ」は戻れてしまう。

そして、その感情を後生大事に抱えてしまうのが人だ。

思い出す度に、感情は新鮮によみがえり、怒り、嘆き、悲しむ。

場合によってはその苛烈さを増していく。


 


 

それは、過去を過去として理解していない、ということになる。


では、どうすれいいのか。

「過去の産物として現在がある」という考え方は受け入れやすいだろう。

仏教的に言えば「縁起」ということになる。


見落としがちなのは、同時に「現在の産物としての過去もある」ということだ。

その「縁起」に気がつくこと。


つまり現在のありようによって、過去は変えられる。


過去を過去と理解する。

現在(いま)を生き、しっかりと充実させていくことで、過去の感情は変わっていく。

新たな気づきが生まれてくるからだ。


現在がしっかりと地に足を付けているものであれば、その過去は今の自分を支える大地となる。

その時、自分の過去の解釈はおのずから変わってくるだろう。


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先生の足元は、その大地は。

今再び、少しずつその硬さを増しているのだろう。


わたしは嬉しさのあまり先生に尋ねた。

じゃあ先生、病気のことも書いて良いですか?

今まで先生の事を思って書いてなかったんですよ。

わたしは実に恩着せがましく、いけしゃあしゃあと、こう言った。

しかもゲラゲラと笑いながら。


わたしは以前も、今も、たぶんこれからも自分本位なのだろう。

僧侶になっても、その辺りは全然変わっていないが(いまのところは)これで良いような気がしている。

わたしの足元の大地は、ほぼ先生でできているから。

おかげさまで、けっこうガッチリ頑強にできている。


わたしの図々しい申し出に、先生もちょっと笑ってからこう言った。

「勝手にしたらいい。最初からダメとは言ってないし、好きなように書いたらいいよ」


だから、ちょっとウルウルしながら、これをわたしは書いている。


東京競馬場の先生とわたし(と桜井住職)
東京競馬場の先生とわたし(と桜井住職)


 



文:国分 二朗

編集:椎葉 権成・近藤 将太

著作:Creem Pan


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